歴代天皇の中で、天皇との血縁が飛び抜けて遠かった継体天皇
(26代、応神天皇の5世の孫)。
しかし、決して皇族(王族)の身分を失っていなかった。
それを証明するのが、和歌山県の隅田(すだ)八幡神社に伝わる
人物画像鏡(国宝)だ。同鏡の銘文に記されている
「癸未年(きびねん、みずのとひつじのとし)」という年紀を何年に比定するか。長く見解が分かれていた。
しかし近年、ようやく西暦503年と見る立場でほぼ一定したと言えよう(山尾幸久氏・平野邦雄氏・車崎正彦氏など)。ならば、同銘文に出て来る「男弟(おおど)王」は、即位前の継体天皇を指すと理解する他ない(その即位は507年)。ここで注目すべきは、確かな同時代史料に、“王”という称号を付けて呼ばれていた事実だ。これは男弟王その人が、紛れもなく君主の血筋を引く人物であり、しかもその一族としての身分を認められていた事実を示す。一時、学界で影響力を持った継体「新王朝」=王朝交替説は、同銘文の史料性が否定されない限り、成立し難いだろう。又、既に皇籍から離れた人物が即位したのでもなかった。この点は確認しておく必要がある。それでも天皇からの血縁の遠さ故に、直系の血筋を引く手白香皇女
(たしらかのひめみこ)に“入り婿(むこ)”する形で、即位することになった。
なお継体天皇は即位前から、近江・尾張・畿内など広範な豪族層と
提携していたことが、知られている(水谷千秋氏)。同天皇が皇位継承候補者として浮上したのは、ただ「男系男子」
だったからという単純な話ではなく、本人のそうした政治的力量を
背景としていた。【高森明勅公式サイト】
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